オスティア・アンティーカ Ostia Antica
ラツィオ州 ローマ県 ローマ市
【歴史】
この街は、ローマ帝国の中央市場の近くの町として発展した。
3世紀には既に司教座であり、水道は5世紀まで使われていた。
しかし、537年にゴート族に襲われ、ビザンティン帝国の襲撃に備えたが、町はすでに荒らされ人が住まなくなった。
テヴェレ川からのローマへのアクセスとして使われ続け、巡礼者や商人の海への通過点となった。
グレゴリウス4世(Papa Gregorio IV )が4世紀に町の要塞を作り、オスティエンセ街道の長い塩田“Gregoriopoli”の労働者たちの宿となったが、9世紀にサラセン人により荒らされ、町は完全に無人と化した。
★ オスティア・アンティーカ遺跡 古代ローマの町跡
★ ボルゴ・グレゴリオーポリ(中世の町並み)Borgo Gregoriopoli
830年にグレゴリウス4世(Gregorio IV)により小さな村が作られ、後に教皇ユリウス2世(Giulio II)となった、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(Giuliano della Rovere)司教が1400年代後半に、彼の名前を付けた城を建設。
枢機卿グリエルモ(Guglielmo d'Estouteville)の頃に、聖女モニカの墓(Tomba di santa Monica)と、聖女アウレアの墓(Tomba di santa Aurea)があった場所に、1483年ルネッサンス様式の聖アウレア聖堂(Basilica di Sant'Aurea)も完成させた。その時の建築家は、ヴァザーリ(Vasari)と、バッチョ・ポンテッリ(Baccio Pontelli)である。
1557年まで税務署や税関として使われていた城は町の防御になっていたが、テヴェレ川の流れを変えたため、町の溝も乾燥し、遺跡となった。
その後、農家の馬小屋として使われることとなり、塔は牢屋として使われ、周辺は沼地と化した。
1800年代、囚人はローマ遺跡の発掘に使われ、1900年代に何度も町は修復を重ねた。
↓ 詳しくは、オスティア・アンティーカのボルゴ・グレゴリオーポリのページへ
★ ボアッチャーナの塔
1キロ以上のデルタ地帯にユリウス2世(Julius II 1443年 - 1513年)の城を防御するボアッチャーナの塔(Tor Boacciana)がある。守備隊の駐屯地として、唯一遠くまで全て見渡せる場所であった。しかし、1557年の洪水で川の流れが変わり、ボアッチャーナの塔から距離ができてしまい税関の役目は果たせなくなった。
★ ミケランジェロ設計の塔(サン・ミケーレの塔)
八角形、高さ18mあるミケランジェロ設計の塔。
海賊からの防御のため、ピウス4世(Pius IV 1499年 - 1565年)が、1559年にミケランジェロに設計を依頼、ミケランジェロは完成を見ずに亡くなった。その後ピウス5世の時代の1568年に、ジョバンニ ・リッピにより完成。1930年に窓と灯台が付けられ第二次世界大戦時に、ドイツ軍やアメリカ軍に使われた。
オスティア・アンティーカへの行き方
旅行記
2019.10
参考
Wikipedia
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