サンタ・マリーア・カープア・ヴェーテレ Santa Maria Capua Vetere

カンパニア州 カゼルタ県

この町の名は、サンタ・マリーア・カープア・ヴェーテレ

「サンタ・マリア」は、唯一残された中世初期の教会の名から取り、「カープア・ヴェーテレ」は「旧カプア」を意味する。


古代カプア Capua antica

紀元前600年より以前からの歴史ある町。

オスカ人、エトルリア人サムニウム人ローマ人の重要都市。

カプアはローマ帝国の第二の都市と言われるほど繁栄していた。

軟膏、香油、薔薇、スペルト小麦の生産地として有名だった。 

しかし、紀元841年にサラセン人により破壊され、数年後にカプアの市民の手により埋め立てられ、ローマ側4km程離れたヴォルトゥルノ川沿いに「新カプア(カプア・ノヴァ)」が建て直されたのが、現在のカプアになる。

現在のカプアサンタ・マリーア・カープア・ヴェーテレは、1800年末期まで一つの自治体だった。

第二次世界大戦で空襲に遭い、現在は新しい建物と古い建物が混在する。


見どころ


円形闘技場 アンフィテアトロ・カンパーノ ANFITEATRO CAMPANO

アッピア街道のあったコルソ・アルド・モーロ通りの北に位置し、ローマのコロッセオの次に大きい円形闘技場。およそ60,000人収容。169m✕139m、高さ46mの4階建てだった。大きさ、時期的にもポッツォーリの円形劇場と似ている。

装飾や彫刻には、カプア郊外のベッローナ(Bellona)から運んだ白い石灰岩、ポッツォーリ近くの粗面岩が使われていた。

これらの古代の装飾デザインは、Pier della VignaやTaddeo da Sessaの作品、フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)の凱旋門の制作に影響を与えている。


1階部分はトラバーチン製の80のアーチがあり、神々の頭部像(現在、これらのいくつかはカプアの博物館が保管し、カプアの役所の建物正面にはめ込まれているものもある)があった。

2階と3階にはエロス、ヴィーナス、カプアのピケなどの神の像が並べられていた。(現存しているものは、ナポリの考古学博物館所蔵)

アクティウムの海戦後に、紀元前1世紀頃にアウグストゥス帝が建てたとされているが、紀元1から2世紀の頃にあった古い闘技場跡の上に新しく建てられたのだと主張する研究者もいる。

しかしながら、119年にハドリアヌス帝により像や柱の装飾をし修復され、155年にアントニヌス・ピウス帝により完成されたのは確かである。

ローマ帝国崩壊後、町はガイセリックに率いられたヴァンダル族により略奪。841年にベネヴェント公国、その後サラセン人により破壊された。

円形劇場からの出土品、建造物の素材は、現在も見られるカプアの町の舗装や建物、要塞建築に使われた。

現在遺跡に残るのは一階までの部分、残る2つのアーチには、ローマ神ケレース(Cerere)ユーノー(Giunone)神の頭部が見れられる。

女性の観客はカテドラルと言われる場所で観ていた。


地下遺構

円形劇場地下部分は、保存状態が良い。10の廊下と多くの小部屋がある。猛獣がアレーナに上がるステップが降りる仕掛けがされていた。Venationesという、猛獣と剣闘士の戦いが行われていたのが分かる。

壁画が残る9世紀の礼拝堂も見つかっている。

保存状態がとても良い。

庭園

2世紀の大きなモザイク画が円形劇場側の庭園で見つかった。ネーレーイス(Nereidi)と、トリートーン(Trioni)神が描かれている。


グラディエーター(剣闘士)博物館 Museo dei Gladiatori

2003年に円形競技場跡地に開館した、剣闘士博物館。3部屋で構成。

第1室 Prima sala 

博物館入り口には、ハドリアヌス帝とアントニヌス・ピウス帝に捧げられた碑文や、円形競技場建物外部アーチ部分の装飾フリジア帽(Berretto frigio)をかぶったミトラ神(Mitra)か アッティス(Attis)に似た男性の頭部、帯状の髪飾り(Diadema)を付けたユーノー神(Giunone)と思われる女性の頭部、アッティカ風の兜をかぶったミネルバ神の頭部などがあり、そして、オリジナルはカプアの博物館(Museo Campano di Capua)に保管されているエトルリアの神ヴォルトゥルノの像のコピーがある。

第2室 Seconda sala 

実物の装飾を使った、カウェア (Cavea) と言われる競技場の入り口付近の再現。手すりは熊、像、ライオンなどの猛獣が獲物を捕らえた状況を掘ったもの。その他、多くの興味深いレリーフ彫刻の破片が展示されている。

第3室 Terza sala 

剣闘士の戦い方法についての解説。


紀元2世紀のニンフェウム像

Edificio a otto lati con fontana monumentale al centro 

円形劇場跡へのアクセス門入って左側にある、八角の建物。噴水があり中央にはニンフェウムの像が置かれていた。


スパルタクスの時代の円形劇場跡

初めてのグラディエーター養成所第三次奴隷戦争の指導者、スパルタクスらが剣闘士として戦っていた場所で、パトロンへの不満から、ここから脱走し、 紀元前73年から2年間にわたり、周辺の奴隷たちを引き連れ、数万から十数万人の反乱軍に膨れ上がりローマを敵に戦った、スパルタクスらの最期は、ローマからカプアまでのアッピア街道に斬首を並べて見せしめにされたという話だ。

その他、劇場跡周辺には、雨水を貯めておく貯水槽跡なども見つかっている。劇場内に水を送り、船での戦いを再現したイベントが行われていたことが分かる。


近くのモザイクの床のあった邸宅跡(ドームス)からは、サテュロス像が見つかっており、この町の考古学博物館に展示されている。このサテュロス像は、ローマのカピトリーニ美術館に展示されているサテュロス像の複製である。


ハドリアヌス帝のアーチ Arco di Adriano

フェリーチェ門、カプアの門とも呼ばれている。アルド・モーロ通りの終わりに位置し、ローマ帝国、カプアの中心街と領地の境目になっていた。大理石で覆われていたが剥がされ、現在は、3つの柱とアーチがひとつ残る。

カプアを溺愛し、旅の疲れをカンパーニャ州の自然で癒していたハドリアヌス帝のためにこの凱旋門を立てたとされているが、6世紀頃にトライアーノ帝がアッピア街道を延ばした時代の凱旋門だと主張する学者もいる。


古代カプアの考古学博物館 MUSEO ARCHEOLOGICO DELL'ANTICA CAPUA

ローマ時代の神殿があった場所に建てられたサンテラズモの塔(Torre di S. Erasmo)にある考古学博物館。馬小屋としても使われていた。

40年前までに見つかった貴重な青銅器時代、エトルリア人、サムニウム人、ローマ人の遺跡が展示されている。



ミトラ神 IL MITREO

1922年に、建物建設時に偶然発見された。ペルシャ人や剣闘士により持ち込まれた神様。

白い牛を殺して、血を洗礼に用いていた。女性禁制。

3世紀の壁画、緑と赤の星が描かれている。犬と蛇、月と太陽。





ドゥオーモ Basilica di Santa Maria Maggiore

カプア出身の司教、カプアの守護聖人、聖シンマクス(San Simmaco)により、432年に建設。初期キリスト教の共同埋葬所(カタコンベ)聖プリスコ(S. Prisco)の洞窟の上に建てられた。

841年に旧カプアの町は蛮族により破壊されたが、この教会周辺だけは被害が少なかった。五世紀のモザイク装飾のアプスがある。

1666年、1700年代、1800年代に修復された。

教会内部はバロック様式、5廊式、様々な大理石の51本の円柱は、古代の神殿などの建物で使われていたものである。

マルコーニ通り(via Guglielmo Marconi)からのクーポラと鐘楼の眺め

1870年に鐘楼の修復中に地下室を発見。中世初期キリスト教の地下埋葬所である。残念ながら、地下遺跡は発掘されていない。

司教区博物館 (次回訪問)


ガリバルディ劇場 IL TEATRO GARIBALDI

1890年、イタリア統一運動のガリバルディに捧げられ建てられた劇場。

メダクオーニ、ロッシーニ、ベッリーニの横顔。ガエターノ・エスポージト建築。

小さなサン・カルロ劇場。


次回訪問

DOMUS - VIA DEGLI ORTI


IL TEATRO GARIBALDI

イタリア統一運動のガリバルディに捧げられ建てられた劇場。





DOMUS DI CONFULEIUS - BOTTEGA DEL TINTORE


スパルタクスの乱 SPARTACUS

紀元前73年、カプアに収容されていた剣闘士たちが、脱走して起こした反乱。大きな脅威をローマ人に与えた。





お気に入りレストラン

ラ・スペルンカ LA SPELUNCA

ミトラ教の聖地の近くのB&Bとレストラン経営の店。パスタは手打ちで、ピザもナポリ風モチモチ生地。値段設定も良心的。和牛もあり、炭焼の牛肉も美味しそう。

Luxury b&b La Spelunca

住所: Via Pietro Morelli, 15, 81055 Santa Maria Capua Vetere


町並み写真集

著名人の住んでいた建物に、墓標らしきものが埋め込まれていた。Via Alessio Simmaco Mazzocchi 

ドゥオーモのあるマッテオッティ広場 Piazza Giacomo Matteotti

裁判所 Palazzo di Giustizia メルツィ宮 Palazzo Melzi

17世紀の建物。ドゥオーモの隣の建物。

ドゥオーモ前の第一次世界大戦戦死者慰霊碑

大聖堂正面の建物



イベント

8月 Festa dell'Assunta





スポーツ

サッカー、ラグビー、テニス

サッカーは、ナポリよりも歴史が古い、Gladiatorというチームがある。


交通

鉄道

サンタ・マリーア・カープア・ヴェーテレ鉄道駅

バス

ナポリ中央駅、ナポリ空港、カプアなどと繋ぐバスあり。




ブログ 旅行記





参考


スパルタクスの乱

ローマはカルタゴを滅ぼし地中海の覇権を握ると、周辺諸国を次々と属州化していった。侵略戦争の拡大にともない、戦争捕虜や、税を払えない属州民が、奴隷として連れてこられた。奴隷が増加すると、その価格は下落し、虐待は一層激しくなった。 国外では反ローマ闘争が各地で起こっていた。スペインではローマの元将軍セルトリウスが原住民とともに立ち上がり、小アジアではポントスのミトリダデスが反旗を翻した。バルカン半島ではトラキア人が反抗し、地中海では海賊が暴れていた。 この頃、イタリア半島南部の重要都市カプア(Capua)で脱走を企てる奴隷たちがいた。南イタリアには大規模な農場があり、そこには多くの奴隷が働いていた。カプアには剣闘士養成所や闘技場があった。 剣闘奴隷(グラディエータ:Gladiator)は、ガリアやバルカンから連れてこられた捕虜が多く、ローマに敵意を抱き反抗的だった。彼らはローマ人の娯楽のために、仲間や猛獣と殺し合いをさせられていた。 BC73年春、トラキア出身の剣闘士スパルタクス(Spartacus)が脱走を呼びかける。「ローマ人の見せ物になるより、自分達のために戦おう」と。200人が荷担し、台所を襲撃、包丁や焼き串を奪って74人が脱走できた。町に出た彼らは通りがかった馬車から武器を奪い、ヴェスヴィオス山(ローマ名:ウェスウィウス山)に立てこもった。そこには多くの奴隷が集まってきた。 ローマは、3000人の軍団を派遣した。単なる奴隷の脱走と甘く考えた寄せ集めの軍団だった。ローマ軍は山頂に通じる一本の山道を封鎖し、奴隷たちが飢えるのを待った。 スパルタクスは、反対斜面から葡萄の枝のはしごで山を降り、油断していたローマ軍を急襲した。 この勝利で多くの武器が手に入り、奴隷軍の士気は一気に高まった。相次ぐ勝利      年表に戻る 武器を手にした奴隷軍は、ヴェスヴィオス山周辺の町を次々に占領した。これに対して、元老院はウァリニウスと12,000の兵を派遣、二手に分かれ奴隷軍を挟み撃ちにした。 ウァリニウス本隊と対峙していたスパルタクスは,、ひそかに後方の別働隊を急襲し、指揮官を戦死させた。そして、即座に反転してウァリニウス本隊を急襲した。奴隷軍はカンパニア平原に出た。 6月のカンパニア平原は収穫の時期で、多くの奴隷が収穫物を持って駆けつけた。兵力は2万人を越え

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EDICOLANTEのイタリア小さな可愛い街の旅行記とコラム

イタリア在住15年。現在住んでいるローマを中心に旅した記録をまとめるサイトです。 ブログは、ほぼ毎日アメーバブログで書いています。 http://ameblo.jp/edicola コラムニスタとしてイタリア関連の記事も書いています。 お気に入り旅写真をアップし、地域別におすすめイタリアの小さな可愛い街の旅行記をまとめていきます。

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